定年待てないオヤジの日記

こころはもう、定年後の自由生活を夢見てる、オヤジの生活日記です。

読書(コラムニストになりたかった)と赤坂キャバレー・ミカド



今日も、暖かくはなってきたものの、まだまだ寒さの残る1日でした。



リクエストしていた、エッセイ本を読みましたが、とても楽しめました。


作者は団塊の世代で年上ですが、自分が生きてきた時代とオーバーラップ
することが多々あり、面白かったです。
1969年から現代まで、年(代)ごとに、当時流行ったりしたことを
中心に書かれています。




自称:800字のコラムニスト(随筆家でもエッセイストでもなく)
雑誌などで、コラムを読んで、名前は何となく記憶にありました。
1988年のアグネス・チャン論争(子連れ出勤)は作者のコラム
から始まったことを知りました。

乃木坂に下宿していたことがあり、赤坂・六本木まで歩いて10分
くらいで・・・というところを読んで、学生時代の少し変わった
アルバイトを思い出しました。


赤坂の‘ミカド’というキャバレー(ピンクではなく、大きなステージが
ありショーを上演する本当のキャバレー:もちろんホステスさんは
いますが)で、大道具のアルバイトを、はっきり覚えてませんが、
1年弱やりました。
当時、赤坂にはそういうキャバレーが3つ(ミカド、新世界、?)
あったと思います。はとバスもナイトツアーで来るようなお店でした。


夜のショーは、確か1日2回あり(マチネと言っていた昼営業は別)、
普段は大道具の出し入れや、ドライアイスでの煙、紙吹雪を降らせたり
と比較的楽な作業で(その代わり拘束時間は長かったと思います)
バイト料も良かった記憶があります。ショーの合間には、近くのTBS
の社員食堂で食事したり(大道具に関係してたからか、割と簡単に
当時は入れてました)していました。
ただ、ショーの入れ替え時には、徹夜+半日でセットを入れ替える
のが大変でした。(力仕事の大工仕事が中心です、奈落は注意しない
と危険でした)正社員の方は2人で(親方と青森から来た同年代の若手
の方)、松竹何とかという会社だったと思います。若手の人は歌舞伎座
で仕事をするのが目標だと言っていました。他には今でいうフリーター
の方と学生アルバイトだったと思います。年上の立教の方がいて、歯の
治療費(立派な前歯でした、70万ぐらいといってた記憶があります)
の支払いにバイトをしてたようです。


記憶にあるのは、ペピータ・ヨシモト(漢字だったかも)という女性歌手
の方がゲスト出演したときで、曲は当時流行っていたアバのダンシング・
クイーンが一番記憶にあります。
大道具の裏に隠れていて、踊り子の方が台に上がるのを、ちょっと押して
(おしりだったかも)助けてあげたこともありました。
踊り子の方は、自分が若かったので、年配に感じましたが、40~50
代だった印象です。舞台では舞台化粧でわかりませんが、帰る時に見た
印象です。年令はそれなりでしたが、さすがに日々踊っているだけあり
スタイルは引き締まっていたのを覚えています。


下宿のとなりの部屋の大阪出身のやつの紹介だったと思います。どうも
そいつもやめるのに、誰かを入れなくては辞めづらかったようです。
アルバイト代もよかったですが、拘束時間が長く帰りが遅いのと、舞台
セットの入れ替え時がきつくて、1年たたずに自分もやめたと思います。


たまに、昔の映画をみていて、赤坂がでてきたとき(料亭のシーンなど)
当時のミカドが映っていたりして、懐かしくなります。


今日は、個人的なことで長くなってしまいました。